昭和五十年十二月二日             御理解             第七節

天地金の神は昔からある神ぞ途中から出来た神でなし 天地は流行る事なし流行る事なければ終わりもなし 天地日月の心になる事肝要なり、信心はせぬでもおかげはやってある。

昨日私は気づかせて頂いた事でしたけれども、此処で信心をなさって会楽の信心を愈々身につけて、段々徳を受けてゆく人達の上に皆、こうお取り立て下さるお引き立てを下さるという、その子弟たちが熱心に信心をする様になりだけではない、お道の教師にでもお取り立てを頂きたいといった様な願いを持つようになり、そしてまあ神様が取り次ぎ者としての教育というか教導をしておって下さる事を、気づかせて頂きました。
昨日は期せずして、永瀬さんところの長男の勝国が以前からの願いであった教会修行を願い出ておりましたが、昨日御両親に付きそはれて修行の願い出がありました。まだ二十二才のまだ何にもいわば信心のことについては判ってはいないのですが、結局は両親の信心に依る事だと思うです。
久留米の今村さんが、あちらはもう二十幾つでしょうか、二十四、五になるでしようか昨日から修行に入りました。
それから気づかせて頂いたんですけど、今月は第一、信徒会長の長男がお道の教師の有資格者、それから久富先生ところのまた三番目でしょうか、博通君がやっぱりお道の教師としてお取り立て頂いとる。本当に思わせて頂くのにまあこれ以上のおかげはなかろうと思います。自分の例えば、自分たちには出来なかった夢が子供の上に実現してゆく。
本当に人が助かる、世の中が明るくなる、清められる、いうなら金光大神御取次の道が愈々広ごりに広ごって行くために、どうしてもそういえ一つの使命感といった様なものを感じる人達が育って来て、そして愈々、人が助かる事のための第一線に立たしてもらう、そのことに愈々専念させて頂くということ、そういう働きが会楽には起こっておるということ、あんたげの息子はいっちょお道の教師になさんのというた訳でもなからなければ、あんた方の娘はお道の教師にしたらどうかと、いうような事でもないのだけれども何とはなしに、そういうお育てを頂いておるということ、それはまあだ成る程、信心はお父さんお母さんの方がどの位出来とるかわからんのだけれども、今日の御理解を頂いて、天地日月の心になること肝要だと、信心をさせていただくなら。
愈々例えば、知っておっても、判っておっても、やはり生活がかかっておる、知ってはおるけれどもそれに中々我情が入り我欲が入って、そうは出来ないのだけれども、ならお道の教師として自分が助かる人も助かって行くという様な世界が広がって来る事のためには、どうでもお徳を受けなければいけん、力を受けなければいけん、そしてその事に専念出来る、自分が助かるという事のために愈々専念する。何も彼も投げ打っていわば専念する、まあここで皆から先生、先生と云われるそういう様なことが一つのあこがれということになって、お道の教師になるという風には思はれない。そりゃ成る程お父さん、お母さんたちの信心から云うと、それはまだ実にそれは幼稚であり、まだ初歩的な事でありましょうけれども、肝心要のところえ取り組んでその事に専念出来る事は素晴らしい事だと思うのです。さあそれが本なこっちゃろうけれどもやはり何とはなしに、家業の方がある、生活が懸かっておる、中々出来なかった、所謂信心に打ち込んでおると云うてもです、やはりそこんところがスッキリと出来ていないところが、なら子供達はそれが出来る。お道の教師たる者が、なら一生を神様え捧げてのことであり、そこから金光大神取り次ぎの道というか神様が金光大神を通して、おたのみになられた、世の中の難儀な氏子が取り次ぎ助けられる、いうなら聖業と申しましょうか、尊い御用に立たせて頂く。もうそれこそ春秋に富むまだ若い身空で言うなら黒衣に身を固めて、人が助かる事のために専念させてもらうというその意志、そのためにはまず自分が助かっていかねばならない。ためには例えば、愈々天の心とは、地の心とは、日月の心とはと、その心を追求してその心を心として、言うなら神の心を心として、取り次ぎ者生神金光大神のお心を心として、これからそのことに、そのことだけに専念しょう、本当に素晴らしいことだと思います。
昨日永瀬さん一家でそのお願いに、勝国君を中心としてお願いに見えた時に、先日頂いた御理解でした、御理解を頂いておりましたら、昨日そのことをまた頂いた。甘木という事を頂いた、甘木市というのがありますね。その甘木の木の字を除くところを頂いた、いうならばまだ、信心が幼稚なのにお道の教師を志すなんて、まあ実にそれはお父さん、お母さんの目から見ると甘い、まあだお前達がという様にあろうけれどもけれどもこの木が、この心が神様のお恵みを受けて、所謂露ということになるときに、甘露ということになる。
何にもわからんなりにお道の教師を志さしてもらった、何もわからんなりにお道の教師所謂神様がその様に導いて下さる育てて下さる、それこそまあいうなら甘っちょろい考え方でお道の教師にはなったけれども、神様がこの木を除いて下さる、甘いちゅうもんを、そして甘い露です、これはいうなら天地日月の心になること肝要と仰せられる。天地日月の心にならせて頂かなければ、頂けない心の状態です。
甘露というのは宗教に依らなければ頂けない、最高の心の状態です。天理教では甘露台と申します。甘い露の台。生長の家では、あちらのお経の様なのがあるそうですが、それを甘露の法雨というそうです、法はシに去るという字、あめは雨、どんなに例えばしっかりしておるというても又はどんなに、立派な信心をしておるというても、修行が出来るというても天地日月の心になること、所謂神の心を心として行く修行に取り組まなかったら大した事はありません。まあ熱心だからおかげを頂く、熱心だからやはり徳を受けてゆくというても、本当の例えば甘露の心という様な心には、本当は程遠いのです。お互いがそれをいうならそれを仕事片手前にそうあらなければならん、なさしてもらいたいとは時にはそういう気持ちで、起こ指して頂くのですけれども中々出来ません。所謂訳を聞いて詳しうなるだけ、ところが愈々取り次ぎ者として神様が御取立て下さるという事になれば、その入り口のところは甘い考えだってたつかも知れないし、何にも判らない云うならば、教祖様にしてみれば無学の百姓でおありになった、私共としては本当に無学な商人だった私がです、取次ぐことに依って、取次がして頂くことに依って云うなら助かって、沢山の人が助かっていっておる、そして私自身が愈々天地日月の心にならざるを得ない羽目に、羽目というとおかしいですけれどね。おかげを頂きたい、おかげを頂きたい程しの信心、金光様の信心、自分は何も出来ないから神様のおかげを頂かなければいけない事が段々わかつてきた、子供の時から薄々それを感じておった。
自分はつまらんから、本当に神様のおかげを頂かなければ、そしてまあすべてを神様にお願いをしたり、お伺いをしたりして、進まして頂くけれども、それがどこまでも自分は頭が悪いから、才がないから神様のおかげを頂かねばならんというそれだけに終始した、何十年間であったんですけれども、そうしなければそういう事にならなければならない事になって来た。
終戦、引き上げ、そして今までの信心の云うならば、間違っておる事に気づかせて頂いて、所謂本当の信心を頂こう、真の信心を頂こうという用にです、本気で修行をさせて頂く様になってわからせて頂いたのが、それも初めの間は修行のつもりであった。
食べる資格もなからなければ着る資格もないようなところにギリギリの自分というものが判った時に、無力なる自分というものがわかった時にです、そういう心の状態にならせて頂いてです、ならせて貰って、だから愈々おかげを頂かせて頂く事のためには、私の家に起きて来る様々な問題、とまあ様々な難儀、それをね、一つ本気で修行と思うて受けてゆこうという気になった。私の持っておる物で、人が呉れというなら上げようと思うた、これをお願いしますと云うたら、どんな嫌なことでもよしというて引き受けようと思うた、もうそれこそ棒にも箸にもかからんような病人を、もう親でも見捨てるような子供を連れて来てね、どうぞお願いします。そげなことは出来んよと、私はだまってそれを引き受けてきた、お金を貸して呉れという者には、賽銭箱を引っ繰り返して貸してやった。お金を呉という者にはお賽銭箱をひっくり返して与えた、そういう受けるという気、腹が出来ておったから実に難かしい事ではなかった。それが今から考えてみると、天地日月の心になること肝要と仰せられる、天地日月の心になる下準備がそのようにして出来ておった事に気づかせてもらつた。
丁度四年半もうあと半年で、五年の記念祭が当時の親愛会、開教五周年の記念の式典が開かれるという半年前に神様にお知らせを頂いて、初めてわからせて頂いた事が、お前が四年半して来た修行というこの修行そのものが、今日の御理解から申しますというと、天地日月の心になる事が肝要だと仰せられる、あれが天地日月の心だと、天の心とは限りなく美しい心、与えて与えて止まない心、地の心とは、黙って受けて受けて受け抜く心、そして良いものを育てて行く心、日月の心、日月こそ実意そのものの働きをして下さる、これほど大きな心はなかろう、いうなら金光教の生命であるところの実意丁寧神信心というものを、もうそのことに打ち込んで、そのことだけに専念させて頂ける。
それこそ天が与えて与えて止まない働き、地が受けて受けて、受け抜いて行く心、天の心地の心が、四年半の間にそれ程大した事とは思はなかった、唯本当に様々の修行もさせて頂いた、断食もさして頂いた、水行もさせて頂いた、あれもしません、これもしません、もう箇条書きにず一っと書いた修行を、いうならさせて頂いた、それでもおかげは頂かれん、そこで思いつかせて頂いたのが、起きてくる一切のことを黙って受けようという事になった、それが四年半続いた、そして後で判らせて貰い、気づかせて貰った事は、信心させて貰うならば、お徳を受けるためにはこれが一番大切だという事を知らず知らずの間に、身につけておったという事になつた、成る程天の心、地の心というものは、これをさせられてきたわけです、そうしなければ居られない、そえしなければもう余儀なくそうさせられた。
ね終戦、裸で引き上げてくる、そこに今までの信心のお陰信心から、本当の信心を真の信心を目指すようになり、真の信心が、どういう事か真の信心がわからん、もう手探りな中からそういう信心に、云うなら真の信心を探り当てた様な気がするです、そこで後々から信心に皆さんがついて来た、おかげを愈々頂こうとする方たちにはです、もう迷うことなく、躊躇することなく、これを皆さんにお伝えすることが出来る。
天の心とは、地の心とはかくだぞと、けれどもそこに生活というものが掛つておりますとです、此処で与えて与えて止まない心が天の心だというて、呉れというものに貸してやったり、呉れてやったりしよったら自分が立ちゆかん、そうすることが本なこっちゃろうと思うけれども、そうは出来んというのが普通でしよう、その方たち、皆さんの場合です、ところがです、今申しますように、道の教師を心指して頂こうということになって、そのことに専念さして貰う、もう生活は神様に委ね任せてある、着ることから食べることから、一切をもう親先生に任せてある。だから私は天地日月の心になる事に、愈々専念させて頂けばよいという、今出来るとは思はれないけれども、そのいうならば甘い心、甘木である、から入ったのであろうけれども、木が心になり、心が  れての、天の恵みの露という事になるところに、甘露ということになる。
甘露の心というものが、自分の心の身上になってくる、もうここんところに入ったらね、もう有り難うして有り難うしてというところに、楽しうして楽しうしてという事になって来るのです。それまでがね、難かしいようですけど、それとても神様がお育てなさるのです。導いて下さるのです。だから今ここに何十人の修行生が居りますけれども、教師を拝命した人達が居りますけれども、私の信心というか流儀を伝えておりますけれども、それを実行しろとはいはない、神様が育てて下さる事を確信しとるからです。目に余る様な事もあるけれども私は言いません、私が育てたって出来る事ぢゃない神様が育てて下さる必ず、おかげを下さる。そして自分自身が取次者としてですその事に専念させて頂くという、しなければという自覚が出来たときに、初めて天地日月の心が身について来る事でしよう。
そこから自分も助かり、人が助かり、世の中が明るくなり、清められてゆく世界が開けて来る。金光大神、天地金の神様がです、そこのところに願いをかけておられる、ての事ですから、会楽の願いが、段々成就してゆく事が、本気で天地日月の心を目指さして貰うて、自他共に助かって行く、そういう信者氏子を、神様の願いとしておられる、その願いに私共が応えて行かなければならないと思います。いけない事がわかると思います、それは成る程生活がかかっておりますから。
私が例えば此処に於いて、辿らせて頂いた事を、みなさんにもという事もありませんが、けど要は日々の信心の生活の中に、天地日月の心を求めて、曲がりなりにもそこに焦点を置いて、進めて行く以外にはありません。
心が豊かになり大きくなり、そこに自分の助かりが愈々大きくなり、そこから本当の意味においての、会楽示現活動に参画するという事になる。
その様々なひんと朝のいはば教話では頂いておるわけでございます。今月の焦点歯、上野先生が昨日御結界につかせて頂きながら今朝の御理解の焦点はどこにあるか、親先生がお知らせを頂かれたという、控えておるお帳面を開かせて頂いて一番初めに目に付いたのは、
   道問えば一時に動く田植笠
という俳句をみなさんに申し上げて、皆さんに段々伝えさせて頂きました。
だから今日の焦点はこれであったと思った瞬間、この御神米の箱にね、もうそれこそビックリするようなおいさみがついた、それから暫くして、二、三十分してここえ、三時半から先生が集まってここで研修しますから、まあだ胸の鼓動が止まない位に、本当に神様がですね、その例えば会楽では、なら今日の焦点、今日の信心、例えば、いう様なものを皆さんわからして、そこには決して難かしい事ではないのです。
そしてそういう信心を、身につけて行く内に、いつとはなしに天地日月の心に、というのが身について来るのです、間違いのない事に焦点が置いてある。そこで昨日から、この十二月の焦点は何というても、報徳祭のことにむけられるんだ。
今月の信心の焦点はどこに置いておりますか、とにかく愈々報徳、十六日に迎えられるところの報徳祭には、どんな事があってもお参りのおかげを頂きたい。万事万端にご都合お繰り合わせを頂きたい、病気をしてはならない、まあお参りをしようと思うけれども金の切れ目でお初穂がでけないという事ぢゃでけん、何から何まで、お繰り合わせを願はなければでけん、だけではない家族中でもお参りしたい。いやそれだけではない、信心のない誰彼にでもお話をして示現活動の一環として、いわば報徳祭にお導きをしてお参りさせてもらうという、といった様なこともです、願いに願って、十六日の誤大祭が盛り上がりに盛り上がる盛会のおかげを頂いて、まるで天地日月の心と違う様にありますけど、決してそうじゃないです。今日から祈りなさい、今日から願い名最、自分のことは置いといても報徳祭の事を願いなさいそれが神様の心だというのですから、天地日月の心。
理屈ぢゃないです、神様の心というかもっというならば、神様の御心に喜び下さるお心なのです。皆さん今月の信心の焦点をどこに置いてありますか、もう報徳祭を中心に報徳祭にかけとります、今月の信心はと、たとえばいう様な信心が出来るならば、昨夜のお説教の中に申します様に、十六日の御大祭が、本当に心の底から有り難いものが湧いて来る位二、本当に打ち込みなさい。
今一年の締めくくりである十二月がもう間違いなく良いお年であったと、言う様な結果が出るでしようという、お話しを昨日さしてもらふうた、ですね。という程しの事ですから、これは日々信心の焦点、今日の行き方を此処え、先日から神心ということについて、お話しを聞いていただいた。
私の方の一番下の栄四郎がそのことに朝から取り組んだ、中々難かしかった。出来なかった、それでも神心はと求め続けた、そして分からなかった、そして自分の身についたとも思われなかった、神心どころか反対の心が起こり続けた。
夜の御祈念の当番でしたから、夜の御祈念を仕えた、そして今日一日神心に取り組んできたけれども、出来なかった事を、繰り返し、繰り返し神様にお詫びさせて頂いておったら、何か知らんけれどもね、有り難いものが湧いて来たという、その有り難いというところが言わば天地日月の心なんです。理屈ぢゃないです。だからその日、その日のです、例えば御理解をああ今日は、私はここんところをそれこそ商売の片手間、お仕事の片手間、ね、今日の心に懸けさして頂いて、信心修行に励まして頂くことがです、取りも直さず天地日月の心になることに、精進しておることにつながるのです。
その様にして次第、次第に、天地日月の心が所謂、神様の心を心として、という様なことに、の稽古ぐらいは、させてもらはねばいつまでたっても、いうなら昨日の御理解ぢゃないけれども、体質改善は出来ません。唯おかげさえ頂けばという体質から信心を頂かなければ、という体質の改善が出来なければいけません、それを例えばお道の教師という様な取り次ぎ者を願い、お取り次ぎ者としてのおかげを頂かして頂けれることに、修行に入った方たちなんかはもういうならば、そのことだけに専念出来ることは素晴らしい事です。そりゃ中々出来ませんけれども、とにかく一心発起、それなら私が終戦と同時にそういう心にならされた、自分でなったのぢゃない、神様がそういうふうにお気づけを下さった、お育てを下さった事によって、様々の修行をさしてもらう事によって、ギリギリのところ一切のことを黙って受けることを、成り行きを黙って受けるということを、自分の心条としてつとめさせて頂いて、それを修行と思っておったら、そのことが天地日月の心であるという事がわからして頂いた、これがいうなら会楽の信心の筋金出あり身上であり、皆さんとてもやはりそれを目指してからの信心の稽古でなからねばならんと思います。
稽古する者には勝ちません、本気でやはり稽古をしなければ、いつまでたっても取り組もうとしない、お話しは頂いても本気で天地日月の心とはと、所謂栄四郎が神心とはとお話を噛んで含めるように頂いておっても、取り組んで尚更わからんのですから、だからわからんからというて放任しては出来ん、でけんからというて、そのことを繰り返しよったら有り難いものが湧いて来た、神様の心にもう通うて行きよる、そのことが楽しみでそのことに精進指して貰うと言うことになる。本当です皆さん、取りくまにゃ駄目です。
      腹立てば心の鏡の曇ること
と教えてアリマスので、本気で腹は立てんぞと、例えば決めてそれを行の上に現してゆかねばいつまでたったっちゃ、年中むかむかしとかんならんです。出来るです稽古をすると。此処には信心の稽古に来るところですから、まあ大掴みにいうて今日の御理解をいうと、天地日月の心になること、いうなら天地、神心、を心とする事をです、その日その日の御理解によって、精進さして頂くということを今日はまあ聞いて頂きました。
専念出来ればこれに越したことはないけれどもと、いうわけにはいけない皆さんの立場から、けどその日その日の御理解を本気で心にかけさせて頂くということが、いつの間にか知らず知らずに自分の心が神の心を心として、する、甘木の心が、神様のお恵みの露の心になることを、自分の心の中に感じるものそれが甘露の心、信心によらなければ頂けない甘露の心、その心が、人間の心 の根本になるものですから、どうでもそこんところを目指して頂くところの信心でなからねばならないと言う事でございます。         どうぞ。